掲示板でご指摘頂いたのでちょっと考えました。
まだ思考の途中の段階なので飽くまで「叩き台」です。
まず、私の個人的かつ感覚的な意見をいうと、
何となくJASRACに良いイメージはないけれど、(なんでだろう?)
良い音楽を作った人がちゃんと報われる様なシステムは必要だと思います。
ですから、音楽に関する著作権は尊重されるべきだと思います。
そもそも、著作権というものが認められるのは、「表現」を保護するためだと考えられます。
「表現」というものが社会にとって価値があるから、
それを保護するために社会が著作権を認めているのだと思います。
さて、表現には価値がある、と書きましたが、
その価値に大小・高低の差はあるでしょうか。
もしあればそれによって保護の仕方に差をつけてもしかるべきでしょう。
しかし、仮に価値の差があるとしてもそれは(芸術的分野においては)各人の価値観によるもので
社会が客観的に測定や設定ができるものではないと思います。
なので、理論的には自由競争の様なシステムにすると
価値に応じた保護(この場合の前提は著作権収入)ができるのではないかと思います。
(このことから考えると、CDも再販制度をやめた方が良いのでしょうかね?)
しかし、情報技術の進んだ今ではインターネットとの関係、違法コピーなどいろいろ難しい問題があります。
なのでJASRCもいろいろ大変なのだと思います。
ただ、個人的に気になるのはプロフェッショナルとアマチュアとの保護の差です。
同じ表現である以上、どちらも同等の保護をする必要があるのではないでしょうか?
確かに一般的にはプロフェッショナルの方が表現の価値が高いといえるのかもしれませんが、
前述のように飽くまで各人の主観が大きく影響する問題ですし、
価値の差があれば同じシステムに乗せても合理的な評価を受けられるのではないかと思います。
その点、JASRACは「プロフェッショナル=発信者」「それ以外=受信者」を前提として、
誰もが表現者たりうることを無視した運営をしているように感じられます。
私は、音楽は誰もが表現できる、もっと自由なものではないかと思います。
(ウクレレを弾いているとより強くそれを感じます。)
私のJASRACに対するあまり良くないイメージは、このためなのかもしれません。
ところで、文章の世界の著作権では必要があれば引用が許されています。
論文、評論などは勿論、掲示板の書き込みでも引用は当然のように行われています。
これは他人の著作物に対する意見を述べることにも価値があるからだと思います。
表現というものが受け手に届いて初めて本来の価値を持つことから考えると、
その反応としての表現の発生を前提としているのではないかと思います。
事実、意見と意見をぶつけることで、より良い意見が生まれることは多々あります。
とすると、引用は受け手の表現の自由から当然に許されるものではないかと思います。
勿論、その引用は飽くまで自分の意見の表現のためであって初めて正当化されるのだと思いますので、
他人がその表現によって受けるべき利益を阻害するためのものは許すべきではないと思います。
では、文章ではなく歌の場合、歌詞の引用は許されるべきでしょうか?
この問題は難しいので、まだはっきりした自分の考えはありませんが、
今の段階では、私は基本的に「歌=(音楽+歌詞)の融合体」だと考えているので、
歌詞の引用自体は、著作権の侵害の程度は少ないのではないかと思っています。
なので、むしろ文章よりも引用は許されるべきなのではないかと思います。
(勿論、自分の意見の表現を目的とする場合に限りますが。)
ただ、思想的な歌とか、ラップとかの場合はもう少し配慮が必要な気もしますので、
修正の余地はかなりあるかもしれません。
とりあえず今の私の立ち場はここに書いたとおりです。
ということは、自分で拾ったコードネームだけ載せるのは良いんでしょうかね?
拾うと同時に自分なりのアレンジを加えた場合、その旨を明記すれば良いのでしょうかね?
自分でアレンジしてMIDIにしたらどうなんでしょうね?
もっと難しいので私には分かりません。
(とりあえず、歌詞とコードをセットで載せるのは妥当ではないかな、と思います。
だからこそ、JASRACから苦情が来る前に削除したのですが。)
CCCDの問題など、著作権に関して、特に情報技術との関係においては
いろいろ難しいです。
それこそ各人が各人の立ち場からの意見、視点を出し合って議論しないと解決しないと思います。
とりあえず今の私には時間的にも能力的にもこれが精一杯です。
勉強との関係等もあるので当分はこれで勘弁願います。
※おまけ
同じ「表現」でも、思想的、あるいは政治的言論などと、芸術的表現などの間に
価値の差はあるでしょうか。
表現の価値には2つの側面があると思います。(というか、あるらしいです。)
まず、その人の内面にあるものを外に表現すること自体が、本人にとって価値があると思います。
(「自己実現の価値」といったりします。)
また、各人がそれぞれの意見を発表し議論することがなければ民主主義は成り立ちませんから、
表現には民主主義的な価値もあると言えます。(「自己統治の価値」といったりします。)
もちろん、これらの価値は表現の受け手がいて初めて価値を持つし、
その表現を受け取ることにも当然価値があるでしょう。
この観点から考えると、思想的・政治的言論の方が社会にとっては価値が高いのかもしれません。
あるいは、ただ思想的・政治的言論には2種類の価値があるだけで、
価値全体で考えれば芸術的表現と差をつけるべきではないのかもしれません。
また、表現する側、受け取る側によっても違うでしょうし、個人差もあるでしょう。
私は、表現の価値の大小・高低は各人それぞれの価値観による、と考えます。
ですから、思想的・政治的な言論と芸術的な表現との間に、
仮にその価値の性質によって保護の仕方が変わることはあっても、
価値の量的な差を前提にした保護の差のつけ方はするべきではないと思います。
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